
2026年4月、京都大学の橋本幸士教授(素粒子論・弦理論、大阪大学教授を経て2021年より現職)が親書『ホログラフィー原理とはなにか』を刊行した。6月にはジュンク堂書店池袋本店で刊行記念トークイベントも開かれ「話題沸騰中」と紹介されるほどの反応があったという。
内容を要約すると、今世紀に入って多くの素粒子物理学者・宇宙物理学者がこぞって研究しているのが、この「ホログラフィー原理」という理論だという。SFの中だけの話ではなく、理論物理学の最前線で今まさに現役の話題になっている。
先日、大学新聞の学生記者として、この分野を専門にする先生への取材に同行する機会をもらった。僕自身の専門とは違うが「重力」も「エネルギー」も工学の土台にある概念だ。取材内容をこの記事内で詳しく述べることは出来ないが、そこで深めた理解をベースに、自分なりに調べ直しながら「ホログラフィー原理とは結局何なのか」を整理してみたい。
そもそも「ホログラフィー原理」とは何なのか
一言で表すと、こういう主張だ。
「僕らが3次元の空間だと思っているこの宇宙は、実はもっと低い次元=”表面”に書き込まれた情報が、立体的に見えているだけかもしれない」
紙幣やクレジットカードに貼られた、角度を変えると立体的に見えるあのシール――ホログラムと同じ発想だ。2次元の平面に光を当てるだけで3次元の像が浮かび上がる。ホログラフィー原理は、それと似たことが宇宙そのものにも起きているのではないか、という仮説になる。専門的には「AdS/CFT対応」とも呼ばれる。
これだけを聞くと「オカルト」的だと思われても仕方がない話だ。しかし理論物理学者たちがこれを大真面目に研究し続けているのには、次章で説明する具体的な根拠がある。
なぜ「体積」ではなく「表面積」なのか――エントロピーという物差し
鍵になるのは「エントロピー」という量だ。高校物理でも名前だけは聞いたことがあるかもしれない。ざっくり言えば「その系がどれだけ複雑・無秩序であるか」を数値化したもので、有名な「エントロピー増大則」は「放っておくと物事は自然に複雑な方向へ進む」という経験則を数式にしたものだ。
このエントロピーには、直感的にわかりやすい性質がある。部屋の中に気体が入っているとして、同じ部屋をもう一つ隣に用意すれば、気体の量は2倍、エントロピーも2倍になる。部屋の体積を2倍にしたのと同じことだ。つまり普通の物理系では、エントロピーは体積に比例する。
ところが、この当たり前の関係が、ブラックホールだけ当てはまらない。
ブラックホールは一度物を吸い込むと二度と外に出さない天体だ。もし気体をブラックホールに吸い込ませたとき、ブラックホール自身がエントロピーを持っていなければ、外側から見ると気体のエントロピーが忽然と消えたように見えてしまう。すなわちエントロピー増大則に反する。だから理屈のうえでは、ブラックホールにも必ずエントロピーがなければおかしい。
この量を実際に計算したのが物理学者ベッケンシュタインとホーキングで、二人の頭文字をとって「ベッケンシュタイン・ホーキング・エントロピー」と呼ばれる。
コラム:頭文字の偶然
ベッケンシュタイン(Bekenstein)とホーキング(Hawking)――この二人の頭文字を並べるとB・H。ちょうどブラックホール(Black Hole)の頭文字とも一致する。単なる偶然ではあるが、ある意味運命的な組み合わせに、物理学者の間ではちょっとした小ネタとして知られているらしい。
そして計算の結果わかったのが、ブラックホールのエントロピーは体積ではなく「表面積」に比例するという事実だった。これは相当おかしな話だ。もし宇宙にある物質がすべて最終的にブラックホールに飲み込まれていったとしたら(実際は、質量の密度を十分に高めればどんな天体もブラックホールになりうる)、宇宙全体の複雑さ=エントロピーは、中身の詰まった体積ではなく、表面積の分しか持てないことになる。
中身がぎっしり詰まっているはずのものの複雑さが、なぜか表面だけで決まってしまう。ここから生まれたのが「だったら本当は、宇宙の情報は最初から中身ではなく表面にしかないのではないか」という発想の転換であり、これがホログラフィー原理の出発点になっている。
1997年、29歳の物理学者が示した具体例
ここまで、あくまで「そう考えると辻褄が合う」という思考実験レベルの話だった。これを具体的な数式のレベルで裏付けたのが、アルゼンチン出身の物理学者フアン・マルダセナだ。彼が29歳のときに書いた論文がホログラフィー原理の分野を大きく変える転機になった。
超弦理論(素粒子を点ではなく「ひも」として捉える理論)を真剣に突き詰めていくと、特定の条件下で「重力を含む高次元の理論」と「重力を含まない低次元の理論(表面上の理論)」が、数学的にぴったり対応することが示された。1997年のこの発表以降、それまで半信半疑だった研究者たちが次々に計算を重ね、「どうやら本当にそうらしい」という確信が積み上がっていった。
盲点だった「内側」の問題
ただし、ここまでの話には大きな抜け穴がある。マルダセナの対応関係も、ベッケンシュタイン・ホーキングの計算も、基本的にはブラックホールの外側から見た話でしかない。
原理的には、ブラックホールに向かって落ちていき、中に入ってしまうことも(観測者の生還はさておき)可能なはずだ。では、その「中の人」から見てもホログラフィー原理は成り立っているのか?――実はこれは、つい最近まではっきりしていなかったテーマだった。
ブラックホールの外側を巡る大問題(有名な「ブラックホール情報パラドックス」)については、ここ数年で大きな進展があり、ほぼ解決したとされている。外側の問題に一定の決着がついたことで、研究者たちの関心は自然と「では中はどうなっているのか」「そもそも宇宙の始まりそのものはどう理解すればいいのか」という次のフェーズに移ってきている。
まとめ
体積ではなく表面積に比例するブラックホールのエントロピー。そこから生まれた「宇宙は表面に書き込まれた情報の立体投影かもしれない」という一見突飛な発想。それが超弦理論という具体的な計算によって裏付けられ、いまはその視点を「ブラックホールの外」から「内側」、そして「宇宙の始まり」へと広げていく段階に入っている。
「中に入ってもホログラフィー原理は成り立つのか」――この問いに対して、実際どんな答えが見え始めているのかは、国内でもまさに現在進行形で研究が動いている領域だ。取材で覗かせてもらった具体的な研究の中身もまさに、それに関連する。
ロマンの域を超えて、計算で証明できることが、物理学の面白さなのかもしれない。

